9月雑言2019.09.28
夏の季節のなごりどころか、夏真っ盛りの今年の9月、台風直撃の房総半島、 分室が位置する勝浦市興津区は停電もなく、界隈全体さしたる被害はなかったが、 隣接する鴨川市以西の地域の惨状は目を覆いたくなるほど甚大である。温暖かつ 風光明媚な南房総、トップダウン式の行政(国&県)の初期対応のお粗末さから、被災住民 は苦渋の真っただ中に置かれたままだ。東日本大震災の被害を千葉県も被ったはずだが、 その教訓は風化してしまったのか・・・・。
さて、標題に話を移そう。台風襲来から1週間後、高速バスを乗り継いで分室に向かった。 途中、日本橋で乗り換えをする時間帯を利用して界隈を散策するのが我常。<写真1>は日本橋高島屋、 本館と新館を繋ぐプロムナードの遥か上空(地上8階)にガラス天井が掛かる。昨今、 このエリアから日本橋三越周辺に至る街空間は再開発の大型商業ビル群が林立する。
9月の仙台は定禅寺ジャズフェスティバル(7,8日)だが、今年は暑さのため閉じこもり で、ふらつきなし。その代わりといってはなんだが、思いがけなくコレクターが手放したフリージャズCDの逸品<写真ー2>が手に入った。 70年代我が国のジャズシーンを席捲した山下洋輔トリオのスイス・モントルー・ジャズフェスのライブ盤だ。 写真左から山下洋輔(p)、坂田明=バカポンパパ(as,)小山彰太(ds)。秋の夜長に轟くフリージャズの音、それにエッリック・アレクサンダーの テナーサックスのバラッド、アニタ・オディの気取らい色気、ああ今年もジャズ漬けの季節突入である。
日光金谷ホテル+中禅寺金谷ホテル2019.05.01
3月、昨年の奈良に続き、50年以上前に修学旅行で訪れた世界遺産・日光に出向いた。JR宇都宮駅で新幹線から日光線に乗り換え、約1時間観光で訪れた外国人に混じって、下野・春の風景を楽しんだ。日光駅に降り立ち、歴史を感じる店界隈の緩い坂道を30分ほど上がり、目的地『日光金谷ホテル』(写真上・注釈ー1)に到着した。日本最古の洋風クラシックホテルに格安のクーポン券利用の2連泊。無垢材多用、高い天井など格式高い個室空間からは東照宮の杉木立上空、残雪眩い男体山等足尾山地の雄大な姿が望めた。2日目はホテルの送迎バスで中禅寺湖畔の『中禅寺金谷ホテル』へ(写真下・注釈ー2)。目的の「天空の湯」入浴は時間外のため断念。折り返し、路線バスで「華厳の滝」経由いろは坂を下り、日光の街中へ。3日目午前中駅前周辺を散策し帰途へ・・。
(注釈ー1)日光金谷ホテル 1873年(明治6年)開業。ゴシック様式3階建て・登録有形文化財及び近代産業遺産。設計者:久米権九郎(1895~1965)久米設計の創設者。代表作、万平ホテル、座間チャペルなど。
(注釈ー2)中禅寺金谷ホテル 標高1271m、ミズナラの木立の中に立地。1992年(平成4年)開業のロッジ風2階建てリゾートホテル。設計者:J・スタージェス(カナダ人建築家)
年賀状2019.01.01
今年の絵柄は、かつてアインシュタイン、チャップリン等が滞在した『奈良ホテル』(エピソードは05.01版「ならまち探訪」で紹介)のエントランス。設計者は辰野金吾(佐賀県出身:1854~1919、代表作東京駅駅舎)と片岡安(石川県出身:1876~1946)。「関西の迎賓館」として1909年に創業し、増改築を繰り返し現在に至る。奈良公園の高台に位置するクラシカルな佇まいは古都奈良の清楚な街並み空間に連なる。ほか我が国を代表するクラシックホテルは『日光金谷ホテル』(栃木県:創業1873年)、『東京ステーションホテル』(創業1915年)、『富士屋ホテル』(神奈川県:1878年)、『ホテルニューグランド』(横浜市:1927年創業)、『万平ホテル』(長野県:創業1894年)、『川奈ホテル』(静岡県:創業1936年)、『蒲郡クラシックホテル』(愛知県:創業1934年)、『雲仙観光ホテ』(長崎県:創業1935年)。
仙台上杉界隈・点描2018.09.25
『仙台市の上昇率トップは青葉区上杉6-227-1.上昇率は17.5%(中略)。周辺の東北大学農学部跡地(写真参照)で商業施設などの再開発が進み、地価を押し上げた。(2018年度の基準地価)』
(日経新聞9/19)・・・・・仙台市中心部における近年最大ともいえる農学部跡地93,000㎡(東京ドーム2個分)はヒ素等汚染物質の除去を含む施設解体撤去・整地工事が終わり、すでに敷地東南角のマンション(13階建て)建設の工事(2棟整備)が始まっている。今後、イオンモールがセンターとなる商業コンプレックス及び医療・福祉施設の建設計画が進み、仙台駅東サイドに押され沈滞気味の周辺の商業ゾーンを巻き込んだ再開発の槌音が響くことになる。・・・・・さて市内繁華街の話題として、50年の長きに渡りジャズミュージシャンやファンのたまり場的なスポット「スイング」(10年ほど前から経営者がかわり「アドリブ」に名称を変更)。残念なことに昨年秋にその歴史に幕を閉じたことがわかった。ジャズシーン華やかしい60~70年、20を超えるジャズ喫茶・バーの類は数件を数えるのみになってしまった。時の流れと変化をまじまじと感じる今日このごろである。
「ならまち」探訪2018.05.01
映画『沙羅双樹』(監督:河瀬直美、2003年公開)のロケ地は奈良県内と承知していたのだが・・・・・3月下旬修学旅行以来実に50年ぶりに奈良の街を旅した。着いた初日の午後は奈良公園散策と公園内にある興福寺の五重塔、仏像などを見学。二日目は奈良交通バス(一日フリー乗車券¥500)で西へ移動、薬師寺と唐招提寺(縁りの井上靖著「天平の甍を只今読書中)を見学後、奈良公園に戻り、校倉造りの元祖・正倉院を遠くから接見。(北隣りの東大寺参道は東洋系外国人と鹿で大混雑)。帰る三日目の午前中は宿泊所(奈良ホテル)付近の旧市街地、観光の目玉でもある「ならまち」界隈(写真参照)を探索。古都ならではの路地小路が東西南北に無数に交差し、古い門構えの民家や大屋根の軒がひしめき連なり、歴史ある店(タナ)、茶屋とポップなギャラリー、カフェ、パブが混じり合う街並みは「ならまち」ならではのカオスを醸し出す。さて、道すがらかつて見たような街の景色の連続に頭をかしげた。修学旅行では貸し切りバスで、法隆寺、東大寺・大仏殿などの定点見学で「ならまち」を歩いた覚えはまったくない。帰って、この記事を書く段になって、何気に「沙羅双樹」を探索したら、なんと歩き回った足取(ならまち界隈→元興寺→三条通り)りがロケ地であった。頭の片隅に映像が記憶されいいるぐらい、私にとって、なんとも不思議で心に残る映画であることは間違いない。
年賀状2018.01.01
初秋の昼下がり、JR軽井沢駅前から町内循環バス(どこまで行っても料金200円、ただし運行間隔約2時間)乗車、まじかに迫る浅間山を背にし中軽井沢駅経由の所要20分の塩沢湖畔下車、建築家フランク・ロイド・ライトの主宰したアメリカアリゾナの建築塾タリアセンの思想を模したその名も「軽井沢タリアセン」。湖を囲うように、移築された山荘・郵便局などの歴史的木造建築物が点在する環境保存型のレクレィション施設。 睡鳩荘(旧朝吹山荘)は湖の東端、木立に囲まれて佇む。1931年(昭和6年)築、2008年(平成20年)移築の軽井沢町屈指のブリティッシュスタイルの別荘建築である。フライス文学者で翻訳者(S.・ボォ―ボワール、F・サガンなど)の朝吹登水子が夏を過ごしたもので、設計はウイリアム・メリル・ヴォ―リス(注釈1)。1階は家具や調度品がおかれ当時の生活空間(サロン)を再現展示、2階は朝吹の作品等の展示空間として使われている。
(注釈1)ウイリアム・メリル・ヴォ―リス(1880-1964):アメリカ・カンザス生まれ。英語教師として来日後、1908年(明治41年)に京都に建築事務所を立ち上げ、学校・教会・住宅などの建築を手掛ける。<代表作>関西学院大学(西宮市)、池田町洋館街(近江八幡町)、福島教会(福島市)東日本大震災被災のち取り壊し。
2拠点居住のフットワーク2017.09.05
東北の主要都市(主)と南房総(従)の2拠点居住を始めて足掛け2年。4~10月のオンシーズンにはほぼ毎月移動している。
途中東京駅で乗り換えする(JR+高速バス)ので、以前にも増して東京周辺でのフットワークが軽くなったように思われる。
7月は神田の古書店巡り、8月は銀ブラ(ギンザ6の見学)と国立新美術館のジャコメッティ展(写真・パンフレット)。この日は気温35度越えの酷暑、首都東京の夏は機械的な原因(エアコンの排ガスなど)加わって異常な暑さを実体験した。同美術館ではこの秋「安藤忠雄展・挑戦」が開催される。
今月はちょっと足を伸ばし3年ぶりの軽井沢へ。今回は南軽井沢を中心に見聞を広げる予定。まだ先の11月は上野の東京文化会館でのモーリス・ベジャール・バレイ団の「ボレロ」鑑賞予定と『知の遊び』のフットワークは俄然軽くなる感じがしてならない。
<軽井沢・脇田美術館の催し物>
10/21(土) 近代建築デザイン講義2017 「アメリカ建築家/ルイス・カーン」について
ゲスト ペンシルベニア大学学芸員・ ウィリアム ウィトカー氏他
10/22(日) 建築ワークショップ ゲスト 建築家 伊礼 智氏他
*いずれも建築家 吉村順三設計の「アトリエ山荘」の見学会が含まれます。
詳しくは同美術館ホームページをご覧ください。
記録誌の発行について2017.04.11
準備号(2011.11.21)から第13号(2014.10.08)まで14回発行。主に被災自治体、地元紙、災害FM局および一部の仮設住宅自治会などに届けられた。内容は被災4県(青森、岩手、宮城、福島)の沿岸自治体における高台移転の進捗状況のまとめや制度や用語の解説及び、実行に伴う問題点のあぶり出しなど、当事者としての視点に基き、編集・発行を行ったものだ。
【甦れ海岸線・暮らしの風景】
「高台移転通信」と同時発行。内容は、人々と海との関わり、生業、歳時記や風景の紹介などを毎号テーマごとに編集したものだ。
大津波により青森から千葉にかけて直線距離で600kmに及ぶ海岸線の風景が一変した・・・・・中略・・・・・世界に誇りうる海辺の美しい風景と家々の連なる景観は戻る気配さえ感じられない。再生はたぶん、気の遠くなるような時間の経過の中で、自然の変化とともに、そこで暮らす人々がこれまでと同じように、幾代にも渡り作り上げていくのであろう。以上は第1号の書き出し部分。
上記二誌をまとめるにあたり、希望される方には無料にて送付いたします。
年賀状2017.01.01
図柄の守谷(もりや)漁港は、分室がある勝浦市興津区の街中から東へ徒歩7分の小漁港である。 リアス式海岸特有の複雑に入り組んだ入り江は透明度が高く、波も穏やかで、周囲にプライベートビ ーチも点在するが、外洋に面する岬の突端は黒潮が荒々しく岩礁に砕ける大海がうねる。
昨年は台風の当たり年、十数年ぶりかの直撃で、作業小屋の屋根が飛ばされるなど被害を受けたが、 規模を小さくし、秋までに再建された。・・・漁港の位置する守谷海岸は東と西、2つの海水浴場を有する。特に守谷東海水浴場は白砂遠浅の好条件の海水浴場で、首都圏ベスト5の人気で、シーズン には多くの海水浴客で賑わう。夏の滞在時には毎日欠かさず訪れ、絶景目ざしブイまで泳ぎ、帰りは砂浜の 水着のお姉さんたちを斜め見する、まさに二重の「眼の保養」を楽しんでいる。
新地釣師から外房興津へ2016.09.05
大津波により全壊流失した新地町釣師の分室を、直線距離で南へ約250㎞の外房興津の地に10月から再開する(再生民家の一角)。 ゆったりした南房総の時の流れに身も心も委ねる日常の齢66、アクセク仕事に精出すつもりはない。台風9号の風速45.5mの洗礼も 受けたばかりだ。仙台からの移動時間はJRだと新幹線、特急乗り継ぎで約4時間、高速バス乗り継ぎだと約8時間のロングムーブとなり、 行けば10日~2週間の滞在。その間1,2度、体力維持を目指して、2駅東となりの勝浦市街目指して海岸線沿いをウォ―キングする。首都圏 人気NO1の守谷海水浴場→サーフィンで賑わう鵜原海岸→海中公園やいくつかの小漁港(写真は吉尾漁港)を経由して勝浦市街へ・・・ この辺りの入り組んだ入り江は映画のロケ地として盛んに利用されている。最近公開された作品では『岸辺の旅』(2015年、監督黒沢清、 カンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞受賞)のラストシーンで鵜原漁港。また9月公開の『怒り』(監督李相日)では勝浦漁港などが使わ れている。・・・勝浦の街ではリゾートホテル直営のプールスパ絶景の屋上ジャグジーや温浴施設で2時間リフレッシュ(平日シニア料金500円) →朝市通りなど散策→市立図書館で新聞のまとめ読み→勝浦駅からJRで帰宅。歩数にして16000歩、アルコールの世話にならなくてもぐっすり 寝られる。寝掛けにジャズのレコードを回すのだが、最後の曲まで聴いたことは今だない。そして2駅西となりの名勝安房小湊にも同系列のプール スパがあるので、そのコースもと、チャレンジの種は膨らむばかりだ。
繋船柱のある港・民家再生(2)2016.05.01
南房総国定公園JR外房線沿線の駅から徒歩2分、海岸・海水浴場にも徒歩2分の場所。燕の一群が飛来し商店街の往来を低空で飛び交い、背後新緑の森では若いウグイスが初鳴きを競演、震災前に東北のどこの海辺集落・界隈でも体験した「海街」4月の情景が繰り広がる。片道約400キロの道のりを通うこと1年、築80年を経過した民家再生のプロジェクトはこの3月結実した。ここは津波災害特別警戒区域、海抜2mの立地、さしたる堤防もなく海への視界は良好であるが、一旦大津波が押寄せたらひとたまりもなく、街ごと壊滅の危険性を孕んではいる。ではあるが、幸い避難先の小高い丘は目と鼻の先にある。大海への視覚を含む五感を遮る障害物はなく、奥尻の教訓(*1)、田老の悲劇(*2)もこの地には無縁である。
(*1) 奥尻の教訓/北海道南西沖地震津波被害以後、最大高さ海抜11mの防潮堤が景観を阻害、観光資源等の激減で島全体の経済の衰弱を招き、商店街はシャッター通りと化し、著しく人口が減少、高齢化社会・限界集落化が加速していった。
(*2) 田老の悲劇/万里の長城の異名を取る東洋一のスーパー防潮堤をも越える津波の威力。過信と供に沖合いとの隔て・遮断が東日本大震災での被害を増幅した。 地域社会に安全と繁栄をもたらすはずの人工の構築物はその目的とは裏腹に真逆の結果も伴うものでもある。
【建築概要】木造平屋・在来工法108.40㎡(32.8坪) 離れ:7.50㎡(3.0坪) 屋根/地瓦葺き。 外壁/漆喰塗り、杉押縁下見板。天井/既存のまま。 内壁/消石灰系塗装(アレスシックイ)。 床/天然木床材、畳敷き。 給湯/自然冷媒ヒートポンプ給湯器(エコキュート)。 空調/空冷式ヒートポンプエアコン 等
年賀状2016.01.01
東京駅からJR特急「わかしお」に乗ること90分で到着の外房線勝浦駅から東に向けて歩くこと10分。ほぼ毎日開催される日本3大朝市のひとつ<勝浦朝市(ここと能登輪島と飛騨高山)>の目抜き通りからの路地に入るとすぐ千葉県最古の銭湯『松の湯』の長細い煙突が眼に入る。今時、薪を水道水で沸かす古典的な営みで、家屋の軒下にはこれから焚かれる薪が山積みされている。吐湯口から湯船に落ちるお湯のほどよく柔らかな質感は、森林浴・日向の香りがするほど心地いい。
港町には銭湯がよく似合う。勝浦港と鰹の水揚げ毎年1・2を競う気仙沼港の海岸通りにも、早朝の水揚げを終えた船方達が通った古い銭湯がいくつかあったものだ。街を歩けば国の登録有形文化財に指定されている「旅館松の家」など昭和初期の風情を残す軒並みが界隈の往来を演出する。そこから海岸辺りが近くなるのに従い、「唐桑御殿」を思わせる重層の屋根を載せた木造建築が軒を被せ合う。
勝浦市は風光明媚なリアス式海岸に位置する観光都市でもある。(この点でも気仙沼市と類似する)リゾートホテル直営の温浴スパは夏休み期間を除き、平日は利用料金500円(シニア料金)と格安である。
『繁船柱のある港・民家再生』中間報告②
漆喰壁の補修、柱・鴨居類の保護塗装等住宅内部の改装も完了。家具やじゅうたん類はハンドメイドのものをリユースオークションなどで揃え、調度品としてのLPレコードは50~60年代のモダンジャズなど約300枚を調達(只今増殖中・・・)。
仙台上杉夏時候―Ⅱ2015.09.11
冷夏の予報が覆り、猛暑日連続の仙台七夕あたりの一週間、と思いきや今度は一転涼しさを通り越し、肌寒い日が続いた夏の終わりの仙台上杉。【写真】の奥に見えるクレーンは上杉山通小学校の校舎増築工事(6階建て3,600㎡*)で、手前の道路沿い、夏草が茂っている空地は賃貸マンション(10階建て33戸*)の建設用地。「震災後の需要を当て込んでの事業のはずが、資材・人件費の高騰の煽りを喰い、約3年更地のまま」というのが実状と察する。古い屋敷を買い取ったオーナー法人はこの界隈で通所介護(ディサービス)等高齢者支援事業を行っている。バブル崩壊後、地価の値下がりで地方から進出した事業者の典型例と聞き及ぶ。 震災景気を当て込んで、やたらマスメディアを使っての派手な宣伝合戦を繰返した、他地域からの新参・建売業者や改修業者は今ではすっかりおとなしくなり(早くも撤収?)上杉界隈も小学校以外目ぼしい現場はなく、この先と言えば、ボーリング場等跡地(大手不動産会社所有)や国立大学移転後の跡地(大手ショッピングモールに売却)の巨大再開発の青写真が見え隠れする程度だ。ともあれ、震災前の日常を取り戻した上杉界隈は平穏な日々が続いて行く。
*:「お知らせ看板」による。
『繋船柱のある港・民家再生』中間報告
さて、この夏まで1週間単位での半日移動を繰返した「築80年民家再生」改修工事は、大工工事等大方の工程が終了、あとは移ろう季節に合わせた塗装・左官等の小規模な修繕、植栽の手入れを施し、来春のお披露目を目指します。
柱のある繋船港・民家再生2015.06.10
「三十五反の帆をまきあげて行くよ仙台石巻」、紺碧の太平洋に向かい、沖を怒涛の黒潮がうねるこの地は江戸時代、東北諸藩の廻米交易船の碇泊港として栄えた。その名残、石巻産の粘板岩(稲井石=仙台石)の船をつなぎとめる「繁船柱」(写真)が海浜公園の一画に凛として突き立つ。リアス式海岸に沿う閑静な町中に位置する、築80年ほどを経過した平屋建て民家の佇まい復活を、土地の匠とともに今手掛けている。かつての家主は地区の発展に貢献した名士であったと聞くが、5年ほど前から住み手のない状況が続いていた。畳や床板は経年による劣化が進んでいたが、柱・梁等の主要構造物はさほどのくるいもなく、今に至っている。昭和初期、ふんだんに材料が流通していたことを物語る良質なクリ・ヒバ・ナラ・サクラ・地スギ等が適材適所使われている。継ぎ手やほぞ・貫の小技、そして、手間隙惜しまぬ造作の長押・書院・戸棚、引き出しの類等、当時の気質が垣間見れる職人技がディテールを彩る。屋根は地瓦葺き、外壁は白漆喰と杉の押縁下見板張りと当時の典型的な住宅のなごりを残す。床下の傷み具合を探ろうと、畳と床板を一部剥してみたところ、床下には黒褐色の砂状のものが均等に敷き撒かれている。匠の親方いわく「これは炭に石灰も混ぜたもの」。事務所に戻って調べてみたのだが、どうも黒褐色した砂粒は「竹炭」らしい。なるほど、湾から奥まった台地に入るほど竹林が密集している光景が目に映る。
【床下敷炭の効果】―静岡県の木材会社のHPから転載―
1 湿度調整:微細孔により半永久的、自然に湿度調整を行う。
2 防虫効果:シロアリ等人体や家屋に害のある虫やカビの発生を抑える。
3 消臭・脱臭効果:微細孔により悪臭を緩和する。
4 住宅の耐久性の向上:木材の含水率の低下、安定により耐久性が増す。
以上の理由から敷炭のおかげで、建築当時のきれいな床下環境を維持しているものと見られる。(これを記述した段階では全ての床下をまだ覗いていない)
地場の気候風土と素材を活かす先人たちの知恵と技に教えられること多い齢65の夏、一週間現場滞在、次の一週間を事務所と、この間隔での半日掛かりの往来がしばし続く。
新地町分室だよりVol..4(最終便)2015.03.16
震災前、159世帯(490人)余りが暮らした福島県相馬郡新地町行政9区・釣師地区はこの3月末日を持って消滅する。津波の犠牲者は新地町最多の34名で、全ての家屋が流失した跡地は、津波減災機能を備えた「釣師防災緑地」(約17ha)に生まれ変わることになった(2017年度完成目標・広報しんち3月号)。・・・2月下旬、土ぼこり舞う町役場前で高速バス(仙台~相馬)を降り立つ。以前はここから釣師集落入り口ランドマークの屋敷林が見え、その先の海の気配を感じたものだが、今では東西に長く伸びる巨大な土塊の防潮堤が視界を遮る。役場東隣りの「保健センター」は当時、釣師地区の人々の指定避難所だった。被災10日後に自転車で駆けつけ(その時の自転車は今だ現役で、仙台の街並みを疾走している)、住宅の<応急危険物判定>のボランティアをした5日間、センターの和室で寝食を供にした。・・・<写真>は釣師南隣りの大戸浜から撮ったもの。漁船が並ぶ右奥にあるのが、沿岸筋唯一残された新地漁協の建物で、その陸側が旧釣師地区の集落跡である。普段の昼下がりであれば、漁協のセリが一段落し、海鳥飛び交う漁船の側では魚網を繕うなど、夜半の出漁に向けての準備をする漁夫たちの姿があちこちで見られたのだが、この日は土地の人の姿はなく、黄色い重機の連なりが唸りを上げて、頭を上下左右しながら無機的に動く光景が虚しく映る。帰りのバスを待つ時間帯、立ち寄った飲食店の隣りの座席では、いかにも他所から来て復興工事に携っていると思える格好をした中年男性を、地元っぽいしゃべり口調の保険の外交員2人がしきりに勧誘していた。この日、目にしたのは殺伐と行き交う大型ダンプの群れ、田園地帯には似付かない全国ネットの不動産住宅会社が建てた場違いと思える洋風賃貸アパート団地。人通りのほとんどない商店街目抜き通り。目にできなかったのは、授業中ということもあるのだろうが、震災前すれ違えば「こんにちは!」と挨拶してくれた子供達の姿。このかつての日常とは程遠い<現実>はいつまで続くのだろうか。・・・アメリカの建築家フランク・ロイド・ライドの日本での直弟子、遠藤新(1889~1951 代表作:甲子園ホテル)の生まれ故郷で、自然と向き合ういろんな体験をさせていただいた。新地町釣師の浜にただ感謝あるのみです。
年賀状2015.01.01
台風一過の10月6日JR小海線野辺山駅下車、送迎バスに揺られることしばし、八ヶ岳山麓・海の口自然郷(標高1,500m、総面積200万坪)に降り立つ。シラカンバやカラマツなどが群生する林の地形になぞって、この自然郷を象徴する3棟の建築を結びトライアングルゾーンを象る。ゾーンのエントランスに位置するのが宿泊施設とレストランを兼ね備える1967年(昭和42年)営業開始の『ロッジ』。そこから林の遊歩道を行くこと約10分の分岐点を右に曲がって歩き続けると、季節折々の週末にコンサートやイベントが催される、双頭のトップライトから流れ落ちる大屋根、ガラスとコンクリートの壁面からなる『音楽堂』(音楽アドバイザー/S・リヒテル+武満徹、1988年完成)が現れる。設計者は旧軽井沢の「アトリエ山荘=脇田美術館内」を手掛けた建築家吉村順三(1908~97)。音楽堂を一周して戻り、分岐点の左側の小道を登ると、広場の奥に連続する三角屋根と白壁の『ヒュッテ』(年賀状絵柄)が八ヶ岳の山並みを背に凛としてそびえ立つのが覗える。ヒュッテは1968年(昭和42年)移築、翌年高原ホテルとして営業開始したヒュッテは尾張徳川家19代当主・徳川義親の邸宅で、チューダー様式<*-1>(木造軸組工法2階建て、延べ床面積799㎡)。設計者は上野東京帝室博物館(現東京国立博物館)や銀座和光(旧服部時計店)などを手掛けた建築家渡辺仁(1887~1973年)で、1934年(昭和9年)東京目白に建てられたもので、この日は閉ざされていたが、ゴールデンウィークと夏季(7月中旬~9月上旬)に限って、ティールーム・レストラン等の営業が行われている。
<*-1>:16世紀英国のチューダー王朝時代の建築様式で、ゴチック様式を受け継ぐもの。英国ルネッサンスの初期ともみなされ、チューダーアーチと呼ばれる幅広で平たい尖頭アーチはこの様式の特徴を表す(住宅建築専門用語辞典)
定ジャズ・白馬&清里駅前2014.11.06
9月13・14日、『定禅寺ストリートジャズフェスティバルin仙台』が市内46ステージ703バンドの競演で熱く繰広げられた。せんだいメディアテーク(写真―1、設計:株・伊東豊雄建築設計事務所、1995年公開コンペティション最優秀作品/応募数235件)の通りに開かれた風通しのいいステージでは、ビーバップやデキシーなど22バンドが自慢の演奏を披露しあった。斬新なデザインで世に知られるメディアテークのファサードは開閉式の大型ガラス扉なのだが、通年数日しか開放されない。晩秋、紅く染まるケヤキ並木などガラス越しではなく、季節ならではの情感を直に体験したいものだ。さて、2階映像DVD貸出しコーナーにはR・ロッセリーニ(1906~77)の「無防備都市」(1945年)等のネオリアリズム(伊)や、F・トリュフォー(1932~84)の「華氏451」(1966年)等のヌーベルバーグ(仏)の作品が多く収蔵され、その道の映画通にはたまらない公共の宝箱であり、無料かつ貸出し期間が2週間というにもこの時節柄うれしい限りである。
10月5~7日、JRを乗継いで秋真っ盛りの信州信濃・甲州路見聞の旅にでた。一日目、新幹線(仙台~大宮~長野)→篠ノ井線(~松本)→大糸線(~白馬)。二日目大糸線(~松本)→中央本線(~小淵沢)→小海線(~野辺山)。三日目、小海線(~清里~佐久平)→新幹線(~大宮~仙台)。街並み、山並み、温泉街、果実や高原野菜の農園・耕作地の景観など収穫は多彩にあったが、ここでは観光地の駅前広場界隈2ヶ所を取り上げてみる。白馬岳等北アルプス登山の起点であり、国際ジャンプ場といくつかのスキー・スノボのゲレンデ、そして山麓に点在する温泉郷が近郊に立地する白馬駅前(写真―2)。この日は折からの台風18号の接近で雨模様ではあったが、登山装備のグループと温泉目当ての団体が後を絶たない。広場を取り巻く思い思いの建物佇まいは積年の風雪の影響下で色あせた感があるが、どこか懐かしいレトロの空気感が充満する。片や清里駅前(スペースに都合で写真は省略)、昭和50年代沸騰した「きよさとブーム」はバブル崩壊とともに沈静化、駅前商店街は寂れたシャッター通りと化し、駅の売店に至っては昼休み休憩で一時店終いの始末。それでも周辺の牧場等の観光スポットを巡る循環バスを発着させてはいるが、平日のせいもあってか、旅行者はおろか地元の人々の姿はまばらに行き交う。・・・場所柄、その土地にあって必要とされ生まれ、形を変えながら引き継がれていくもの(白馬)。ブームとか仕掛けとかによって一時的に脚光を浴び、以後衰退するもの(清里)。要はその<場所の個性・特質>を素直・実直に反映させるか否かであり、この先、地場の資源豊かな清里高原再興のヒントはそのあたりにあるように思われる。
「東北沿岸・高台移転通信第13号」/東北沿岸部の状況―Ⅴ、高台移転情報memo-14:分散型の地域コミュニティ、福島県新地町釣師地区の状況 「甦れ海岸線・暮しの風景-13」/海際集落のかたち:山田湾、京都中津、山元町北磯、海際・絶景の建築3題:宮古市立崎山小学校等、銀幕を彩る海洋都市(1)南仏・トゥーロン 送付ご希望の方はメールにて伺います(無料)
仙台上杉・夏時候2014.09.08
七・八月、70年代前半、長髪に細身のGパン、岩波の文庫本(当時☆一つ50円)ともう一つの必需品・両切りタバコ(もっぱら新生で、洒落た手合いはゴロワースかピー缶)持って冷房の効いたジャズ喫茶、コーヒーすすりタバコ燻らせ、流行りのJ・コルトレーンとかE・ドルフィーだのM・タイナーをガンガン聴く、というのが当時のひとつのスタイル。[おれのあの子はタバコが好きで、いつもプカプカプカ~](作詞西岡恭三、1948~1999)音楽・映画など社会を映す小道具としても『タバコ』はごく当たり前のように使われていた。しかし昨今喫煙による健康被害が周知されるようになり、喫煙者は減少の一途をたどるのであったが、3.11以降増加に転じるというアンケート結果がでている。事実、隣接する自治体の関連団体が入る建物ピロティ(写真―1)の喫煙所はいつのまにか灰皿スタンドが2つに増え、毎日延べ100人を下らない職員諸氏がこちらの庭木や北隣の児童公園などを借景にして一服しているのが覗ける。自身の体への影響は自己管理の責任の範ちゅうとしても、大気中に吐き出される煙によって公園の桜の木等木立や屋外環境に及ぼす害はないのだろうか? 紫煙を無害にする喫煙ブースなど分煙施設を建物内に充足させれば酷暑・酷寒のころに外にでず、一石三鳥ぐらいの効果があると思うのだが・・・ さて、お堅い話になるが、喫煙スペース等屋内的用途のピロティ使用は延べ床面積に計上、もしや容積率限度いっぱいに建てられているのであれば(ここは近隣商業地域)、建築基準法に接触する場合も生じるものである。震災以降、当事務所周辺の富裕層を核とした住宅建築ラッシュは昨年終焉に至った。その最後を飾ったのが同一業者の手掛けた、いわゆる<豪邸>。間取りや室内機能は到底計る術はないのだが、外観は片やプリンスエドワード島(加)風、片やコートダジュール(仏)風が軒を連ねる(写真―2、建物にも肖像権があるので木立越し、文章からシルエットをイメージして欲しい)。単体としてはなかなかのデザインと感心はするが、こと街並み家並み景観形成の視点から物申せば、そして建築の行為に社会性を求めることが義務であるものなら、この界隈の景観向上に繋がる2棟共通のデザインアレンジの方法が取られてもよかったように思われる・・・。夏休みが終わった初日、各被災地域から移住してきたと思われる小学生の集団(建築事情・仙台上杉2013.03.01掲載済み)も、休み明けで心成しか、皆静かに前かがみで登校していったのだが、ふるさとに戻った子もいるのか、数がわずかだにが、減っている。震災の翌年入学した一年坊主は早3年生だ。3年半経った夏の終わり、遠のく記憶をさらに助長するように澄んだ天空高く薄墨ごときの筋雲が海岸線目指し、ゆっくりと流れていく。どれどれ、時節柄、稲垣潤一(1953~)の「夏のクラクション」聴きながら村上春樹(1949~)の「風の歌を聴け」でも再読するか。そしてそのあと、佐藤泰志(1949~90)の「そこのみにて光輝く」か・・・同世代の<心の吐露>がなぜか五臓六腑に染み至る夏の終わりの今日このごろだ。
広瀬川と後生掛温泉2014.07.07
5月の広瀬川中流域(写真―1)。仙台市街地西部を流れる広瀬川に架かる牛越橋と澱橋を挟むエリアに約2週間に一度、所用で出向くこと十数年、四季折々の川岸風景を目の内にしている。今では清流としての知名度を誇る川であるが、史実上<暴れ川>の性格をも持ち合わせる。記録によれば室町時代より大洪水による居宅地の浸水、橋の流失等幾多の大災害を繰り返してきた。だが上流域の治水事業や低地河岸の堤防化により、1950年(昭和25年)評定河原橋・宮沢橋などが流失した洪水被害のあとは、大きな災害は発生していない。一方、一時期川沿いの工場汚水の垂れ流しが原因で著しく水質が悪化、生態系に悪影響を及ぼす環境汚染が発生したことも記録に残っている。時折水かさを増し濁流となり<暴れ川>の一面を覗かせるものも、平素は杜の都に潤いと安らぎを与え続けている。
6月、サッカーワールドカップ・サムライジャパン緒戦の朝、仙台駅前発盛岡行きの高速バス(2600円)に乗った。目的地はこの冬立ち寄った『後生掛温泉』(写真―2)、盛岡駅前下車の時は1-1イーブンだったが・・・。ここから路線バスを乗り継ぎ(盛岡→松尾鉱山記念館(940円)→八幡平頂上(420円)→後生掛温泉(480円)ざっと5時間の車窓を流れる初夏の景色を楽しんだ。開湯300年の『後生掛温泉』は旅館部と湯治部からなり、最大300名収用の天然温泉保養施設である。谷全体が活火山で、建屋居室は地熱利用のオンドル床暖房、温度調節が効かないので、この季節窓を開けて涼風を呼び込む。ここの一番の魅力は「泥湯」「火山風呂」「箱蒸風呂」「露天風呂」等7湯を有する、古びた木造りの湯場である。旅館部・湯治部の分け隔てなく、湯殿での文字通り「裸の付き合い」がまた楽しい。前述の『蟹場温泉』のごとく、階段やスロープで各棟連絡されているが、随所に広いロビーなど休憩スペースがあり、割とゆったりとした温浴空間を作り上げている。翌日、隣接する「泥火山」「大湯沼」等の自然研究路を散策した後、上方の『蒸(ふけ)ノ湯』の日帰り入浴を楽しんだ。3日目、後生掛温泉→田沢湖駅前(1840円)の路線バス乗車。途中『玉川温泉』から岩盤浴用のゴザを抱えた一行が乗り込んできて、バスは満員になったが、次の『新玉川温泉』で一行全員下車。騒然とした車内にまた静寂が戻り、約30分後に終点に到着した。ここでは、建築家坂茂(ばん・しげる、1957~)さん設計のJR田沢湖駅舎を見学。その後再び路線バスで角館へ(570円)。角館では『平福記念美術館』、『青柳家』を見学、武家屋敷通りをそぞろ歩いてJR角館駅、「こまち28号」乗車(6040円・大人の休日切符30%OFF)、夕方仙台駅着「ほぼ路線バスの旅」は完結した。
<最新号発行のお知らせ> 『東北沿岸・高台移転通信』第12号/「再生への軌道」過去災害(奥尻・阪神・山古志)復興再生の事例等、『甦れ海岸線・暮しの風景』-12/「近代化産業遺構」長崎軍艦島(端島)、本吉大谷鉱山跡+森の伝承館、海岸通りL1対応の家等 送付ご希望の方はメールにて承ります。(無料)
乳頭温泉行など2014.05.05
3月中旬、雪まだ深い八幡平・乳頭温泉郷に出掛けた。東北の背骨たる奥羽山系・深山の連なりは名湯・秘湯の宝庫であり、かれこれ20年に渡り<青森>蔦、<秋田>子安、<岩手>繋と焼石岳山麓、<山形>赤倉、<宮城>鳴子と鬼首・作並の温泉施設の計画・設計に携ってきたのだが、国の指針もあり、段差解消のスロープや縦移動のエレベーター設置等のバリアフリー化が義務付けされている。だれでも気軽に安心して温泉を楽しむことができることは、その施設の採算性にも繋がる。ところがだ、乳頭温泉七湯中一番奥に位置する『蟹場温泉』にあっては、そもそも地形に添って造られたものだから、バリアフリーのかけらもない。内湯がいくつかあるのだが、木造りの狭い階段廊下を下りてたどり着く。露天風呂(写真―1)にあっては、長靴に履き替え、背丈をはるかに越える雪壁連なる細道を遠々と下だって、ようやくたどり着く。薄暗い迷路の果てに閉塞された内湯と四方森に開放された昔風情の露天風呂、この極端とも言える湯めぐりの対比が魅力であり、段差があろうと、遠かろうと、たとえ杖を借り、這ってでも「その湯に入りたい」と思う気持ちにさせることこそ、その<湯場の個性>であり、訪れる人々を魅了する源泉でもある。乳頭温泉七湯、中には完全バリアフリーの温浴宿泊施設もあり、それぞれ周りの景色、建物の風情や温泉の色も泉質も異なり、丸一日掛けて「温泉三昧」に浸ることができる。
4月中旬の週末上京、家族の集りのついでに京橋に寄り道、仙台でも教鞭をとったことのあるドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880~1938)の懐古展を覗いた。この界隈(日本橋1丁目~銀座1丁目)は8年前の毎週末、<50>の手習い・社会人学級に通った場所だ。通りは老舗の百貨店や江戸時代から続く大店・小店、路地に入ればモダンな画廊や行列の絶えない食べ物屋などが軒を連ねる、言ってみれば「街の歴史・文化の玉手箱」みたいな所で、丸一日楽しく過ごせる<通>のためのワンダーランドである。夜は一歩足を伸ばし、銀座7丁目で創業80年「ビヤホール銀座ライオン」(1934~)で串カツ片手に大ジョッキで乾杯、銀座の夜は更けゆく。翌日曜朝、東横線で横浜へ。目的はひいきチームの野球観戦。物心ついたころからファン歴60年を誇るのだが、発端は生まれ故郷、チームの親会社の缶詰工場が近所にあったからという単純なもの。チームの本拠地球場は横浜の中心地関内・横浜公園にあり、この日は花と緑をテーマのイベントが開かれ、多くの来訪者が試合中の球場を取り巻いた(写真―2)。外野立見席、シューマイほうばり生ビール、またぞろ負け試合を堪能満喫、なんとも痛風再発が気掛かりな二日間であった。
◎ ブルーノ・タウト工芸展 京橋3丁目LIXILギャラリー(入場無料)5/24迄
昭和の残像、東京有楽町ガード下と秋田湯瀬温泉郷2014.03.10
正月に上京、湯島での家族新年会のついでに、縁有り「帝国ホテル東京」に投宿した。場所柄、銀座など繁華街に近く、夜は飛び込みで柿落としなった歌舞伎座の立ち見席で1幕ものを観劇、ホテルに帰る道すがら、JRガード下(写真―1中央)の赤提灯の店頭でリングに吊るされた干物魚がぐるぐる廻っているが眼に飛び込む。実はこの風景に見覚えがあり、かれこれ40数年前血気盛んなころの記憶が重なる。有楽町駅周辺ガード下界隈は再開発に取り残され(いや頑強に時代の流転に抵抗し)、昭和そのまま、しかも戦後さながらの歓楽街のカオスを醸し出している。漫画雑誌『ガロ』劇中、すすけた焼き鳥屋、丼めし屋、ハイカラ洋食店に、カウンターだけのモッキリ酒場などが迷路なような狭い路地に軒を連ね、千鳥足の酔っ払いども(自分も含めて)が滝田ゆう似の店主を冷やかす。なんとも、いろんな意味での良き時代・昭和の空間が色濃く存在する。そのガード下から徒歩1分足らず、帝国ホテル東京の本館1階正面ロビーの一画で、旧ホテルの設計を手掛けた建築家フランク・ロイド・ライト(1867~1959)特別展示「“東洋の宝石”ライト館とその時代」が3月31日まで開催されている。
二月、厳冬期の湯治は別格。高さ3.5mの積雪の真っ只中、仕事のネタ拾い旁、秋田八幡平の秘湯中の秘湯<馬で来て、足駄で帰る>後生掛温泉の泥湯にとっぷりと浸かった。後生掛から車で小1時間、その裾野に位置する湯瀬温泉郷は四方小高い尾根に囲まれた箱庭的盆地型の山郷であるが、景観上スケールアウトとも言える収用人数500人を越す巨大ホテルが2棟対峙し、街界隈といえば、JR花輪線湯瀬温泉駅周辺から湯瀬渓谷にかけての商店・民家に空家が目立ち、人・車の通りもほとんどないのであるが、かつての湯治の里として栄えた面影は街並・軒の連なり所々に残っていて(写真―2)、懐かしい昭和の情景のなごりを留めていた。・・・都市における再開発、地方における街おこし・村おこし、双方に共通する事柄は、<場所>の履歴を学習し、歴史的価値などの個性特性を活かす術を考えることから始まるものだと理解する。
『東北沿岸・高台移転通信第11号』/<被災3年 この現実>住宅再建、遥かなるみちのり等掲載。 『甦れ海岸線・暮しの風景』-11/<島成立ちの魅力>①北海道厚岸小島、②瀬戸内海直島等掲載。送付ご希望の方はメールにて伺います(無料)。
年賀状2014.01.01
11月中旬、赤坂通りからミッドタウン、六本木ヒルズを経由して麻布仙台坂下まで歩いた。30分弱の行程は登り下りの坂道の連続で、起伏に富んだ風景の変化を楽しむことができる。・・・子供達の通学の利便性を第一に考えて選んだ仙台坂下界隈に10年通った。附近一帯は昭和の香りが残る下町風情と、各国の大使館が点在し異国情緒が交差する一種独特の街の雰意気を醸し出している。六本木けやき坂を下り麻布十番から暗闇坂を登って元麻布仙台坂上にでた。坂道沿いのオーストリア等大使館の連なりや安藤記念教会は以前のままの佇まいを見せていた。坂上から下る途中にある韓国大使館は改築工事を済ませ、威風堂々とした現代建築の容貌に変身していた。以前と大きく変わった仙台坂の眺めはここだけで、あとはほっとする風景が続く。さて、今年の年賀状図柄は麻布・パティオ十番。仙台坂下から平坦地を北へ徒歩約5分。東から西に登る緩い勾配の歩車道の石畳、その入り口に位置するパティオ。街の様々なイベントに重宝され、この日はペットの里親探しの会が行われていた。ハロウィンのころには外国人の子供達が仮装して遊ぶ姿も見られる。晩秋の夕暮れ、落日とともに橙色に染まる街並みの風情はエキゾチックで、どこかモダンな異国の街角に迷い込んでしまった錯覚に陥る。しかし、この絶品の眺めは一時の至福、街はやがて薄墨色の夜景へと変貌していく。
風景としての棲家2013.11.07
海岸に隣接する小高い林に建つ60才台夫婦の終の棲家。
木造平屋建て在来工法、メーターモジュール、延べ面積65㎡(19.7坪)。
キューブ1:夫の部屋(11.8㎡)/ベッド、作業机、洗面器付き棚、道具棚
キューブ2:妻の部屋(9.73㎡)/ベッド、机、洗面器付き棚、書棚、外部デッキ
(キューブ1・2の面積設定はル・コルビュジェの「モジュロール」による)
従室:D・K、脱衣室、浴室、トイレ。
調理・食事、団らん以外は、それぞれのキューブ(自立の領域)が生活拠点となる。
仮にどちらかが先に他界した場合は、そのキューブはゲストルームとして使われる。
詳細設定は「甦れ海岸線・暮しの風景」最新号に記載。
<季刊誌発行(無料)のお知らせ>
「東北沿岸・高台移転通信第10号」/特集:高台移転・東北沿岸部の状況―Ⅳ、高台移転その後の動き・宮城県、福島県新地町釣師地区の状況 他
「甦れ海岸線・暮しの風景―10」/<風景としての棲家>ル・コルビュジェ「カバノン」、生田勉「栗の木のある家」、習作「風景としての棲家」、長者原山荘
以上、送付ご希望の方はメールにて承ります。
定禅寺ジャズフェスィバル2013.09.10
9月7日8日の2日間ストリートミュージックの祭典『定禅寺ジャズフェスティバルin仙台』が開催された。定禅寺通り沿いのステージに25バンドの参加で始まった同フェスは、23回の年月を重ねて街中に浸透、今年は700を越えるジャズ、ロック、ラテン等様々なバンドの音色が、過ぎ行く夏を惜しむように杜の都の空に響き渡った。そのスタイルは当初ジャズの真髄を極めるものであったが、年々その枠を広げ、ジャンルを問わない音楽祭に変貌、これに頭をかしげた発起人の1人のジャズミュージシャンが別の日にジャズだけのイベントを開催するという逸話も併せ持つ。なにはともあれ、写真は8日仙台定禅寺ビル前のステージ。演奏は東京からやってきた?「ANA チーム羽田オーケストラ」 で、大人感覚のポップス系ジャズが聴衆を魅了する。さて、お次はお目当ての気仙沼ジュニアジャズオーケストラ「スウィング・ドルフィンズ」。カウント・ベーシィー、グレン・ミラーのナンバーはお手のもの、大人顔負けの堂々たる演奏に、聴衆の拍手の波が途切れない。時より降りしきる雨の中、饗宴は夜遅くまで続く。奇しくも、この週末はジャズ界の大御所リー・コニッツ、21歳の新進ピアニスト桑原あい等ステージの『東京JAZZ』とバッティング。なかには、深夜バス移動、定禅寺ジャズと東京JAZZを梯子した人達もいたようだ。・・・定禅寺で生演奏を楽しんだあと、夜はFMラジオで『東京JAZZ』のライブを堪能、ジャズ好きにはなんとも幸せな週末の午後の過ごし方であった。
<季刊誌発行(無料)のお知らせ>
「東北沿岸・高台移転通信第9号」/特集:災害危険区域。リポート:仙台市宮城野区蒲生地区の現状 自然環境と防災等
「甦れ海岸線・暮しの風景―09」/風景を刻み込むー断崖の造形。 水辺の建築(2)199旧本吉町日門漁港海の伝承館
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「シルバーボックス上杉―1」築25周年2013.07.08
1975年(S50年)第一次オイルショック当時務めていた設計事務所閉鎖後、否応なしにアパート自室に建築士事務所の看板を掲げて早33年。・・・88年(S63年)に完成したシルバーボックス上杉―1で業務を続けて今年25回目の夏を迎えました。新築時、朝日に光輝く外壁に、通行人から「眩しすぎる」とひんしゅくをかった外観は、季節を巡らすごとに、すっかり辺りの空気に馴染んだかのように見えます。継ぎ目なし縦ストライプのガルバ鋼板(通気工法)の外壁はメンテナンスフリー、雨風が塵・埃を払いのけ、台風のあとなどは新築同然の立ち姿となります。・・・徹夜続きの模型作り、コンペの審査結果の電話待ちなど、凝縮された時間の蓄積が今ではなつかしく思われます。3.11、福島県新地町の分室から戻った翌々日に大きな揺れに襲われ、棚の書籍は崩落しましたが、建物自体の被害は皆無であり、通電なった次の日からここを拠点に建物応急危険度判定等の被災地復旧支援の活動に廻りました。・・・さて、シルバーボックス上杉―1では『サタデールーム かみすぎ』と名うって、毎週土曜日に建築相談会を開催しています。住宅の新築・増築、景観、建築に係わる困りごと等相談を承り、適切なアドバイスをおこなうことを心掛けています。どうぞ気軽にお声掛け下さい。
『 サタデールーム かみすぎ 』 毎週土曜日開設・無料・予約制
アドバイザースタッフ:一級建築士、構造設計建築士、設備建築士、環境デザイナー等
問い合わせ、連絡は郵便、電話・ファクス(022-265-6054)、メール(平日可)で伺います。
また、遠隔地での相談会開催も随時行っています。
新地町分室だより Vol.32013.05.10
新地町における防災集団移転促進整備事業は比較的順調に推移し、災害公営住宅(復興住宅)建設や高台移転先の団地造成工事がピークを迎えているが、一方ではこの春に東京電力福島第1原子力発電所の汚染水水漏れ事故が連続して発生し、町は今だ一向に収束する気配がない原発事故の後遺症に悩まされ続けている。とりわけ漁業従事者への影響は深刻で、船あれど操業再開の目途は全くたっていない。釣師浜漁港(写真参照)周辺のガレキは昨年早々になくなったが、元来きれいな湾曲を形作る海岸線は見るからに殺風景で、寄せる波の音と時々のカモメの鳴き声が虚しく聴こえるだけだ。釣師浜を含む町北部の沿岸地帯は、津波に対しての多重防御の一環として「防災緑地」の指定を受け、このほど建築制限がかけられる。大地震・大津波・原発事故から2年以上経った今も新地の海の先は見えてこない。4月15日付出荷及び摂取できない主な魚類:カレイ、メバル、ヒラメ、スズキ、タナゴ、サヨリ、タイ。新地町空間線量率測定結果(4/9):線量が一番高い所=沢口ふれあい広場(芝)0.31μsv/h。線量が一番低い所=福田小学校・福田保育園(土)0.06μsv/h。
<季刊誌発行(無料)のお知らせ>
「東北沿岸・高台移転通信第8号」/特集:災害公営住宅。実施例として岩手県野田村ほか2件の住宅を照会。参考例として長野県栄村の村栄復興住宅の照会、等。
「甦れ海岸線・暮しの風景―08」/賑わいを形どる<水辺の建築>として釧路フィッシャーマンズワーフ、函館赤レンガ倉庫群等を照会。
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建築事情・仙台上杉2013.03.01
被災沿岸部の人口が減り続くのをよそに、仙台市の人口増加に拍車が掛かっている(2012年度、9284人の転入増加、総務省)。それを如述に示す例として、当事務所が位置する上杉1丁目界隈は、建築ラッシュがピークを迎えている。一部富裕層の戸建て住宅や分譲・賃貸のマンション等住居系の新築が相次ぐ。さらに新築、中古を問わずマンション等共同住宅には、被災地域から移動してきた世帯の入居が見られる。被災前はみられなかった集団登校(近隣の町内会の新築マンションに福島県から集団移転してきた)の小学生の列が、にぎやかに事務所の前を通り過ぎていく。当学区の上杉山通小学校【写真】は増え続ける生徒数に対応すべく、校庭に急ごしらえのプレファブの仮設教室をつくるほどだ。・・・上杉地区のみならず仙台市内外いたるところで、住宅建設のラッシュは続く。ほとんどのハウスメーカーは、契約しても着工は1年先と、鼻息は荒い。新聞広告やTVコマーシャルには、初めて聞くメーカーや建築業者、改修業者の名前が目立つ。雨後のたけのこ、被災地周辺は草刈場なのか、全国から集ってきているようだ。復興住宅建設の需要はせいぜい2~3年先が限度、受注がなくなれば去っていくのか。依頼者によっては35年ローン(フラット35の場合)を組み、中には二重ローンを抱えざるを負えないケースだってある。去られたあとの我が家のメンテナンスは、瑕疵の補償はどうすればと、思案がつきない日常がこの先も続く。
<季刊誌発行のお知らせ>
「東北沿岸・高台移転通信第7号」/特集:再建地、地盤の安全性について リポート1:仙台市緑ヶ丘団地、リポート2:千葉県浦安市。新地町釣師地区の状況など。 「甦れ海岸線・暮しの風景--07」/被災2年後の建築事情
以上、送付ご希望の方はメールにて承ります。
年賀状2013.01.01
6月中旬、新宿駅からJR中央線に乗り、大月駅で富士急行線に乗り換え、河口湖駅に降り立った。駅プールから河口湖・西湖周遊の観光バスに乗り込み、車窓から雲の切れ目から望む富士山の絶景を小一時間ほど楽しみ、夕方近くに「河口湖ホテル」に投宿した。本館はまさにリゾート地のモダンホテルを彷彿させる骨太のクラシカルな木造建築で、昭和30年代あたりには皇族ご用達、さらには大物政治家がこぞって利用したスティタスなホテルとして威光を放った歴史を持つ。築50年を遥かに過ぎて老朽化は著しいが、歩くたびの床の軋む音、染みのある壁に掛けられたホテルの輝かしい痕跡の古い写真など、心和む<昭和の香り>を存分に味会うことのできる建物である。朝、水面に映る対岸の景色を見ながら、そそる煎りたてのコーヒーはまさに珠玉の一杯である。・・・棟続きの鉄筋コンクリート造新館の最上階に位置する男風呂からは富士山と川口湖が一望できる絶景のおまけ付きでもある。避暑客で賑わう前のこの時期は予約しやすく値段も手ごろで、富士山麓周辺の観光にはうってつけの拠点ではあるが、梅雨入り時期の為、富士山の雄姿を拝めるかどうかは、その日の運に掛かるところが大きいようです。
1年になりました。2012.11.12
時が過ぎるのは早いもので、「東北沿岸・高台移転通信」と「甦れ海岸線・暮しの風景」を創刊して1年になりました。当初は毎月発行と意気込んだのですが、この夏から3ヶ月1度(季刊)の発行にペースダウンいたしました。遅れがちな被災地再生の速度に歩調を合わせ、息長く続けていくつもりです。さて、発行するには、どちらも経緯(いきさつ)がありました。「東北沿岸・高台移転通信」は、行政主催の被災住民向け集団移転等の説明会においての、担当者の一言「災害危険区域から立ち退かない者には強制収用も有り得る」。この強権とも思われる発言に対し、住民の方々からは抗議の声は上がりませんでした。次の説明会で、当の担当者は、真意ではなく、報道などからの引用だと説明しましたが・・・多分被災地いたるところで、このようなボタンの掛け違いが起きていると予測し、であれば被災地域間のネットワークを立上げ、連絡網を這わせ、当事者、支援者、行政共通の情報・問題点を共有する手立てかと思い至った次第です。1年が経ち、全てではありませんが、仮設住宅自治会、支援グループ、自治体担当者、地域FM局・新聞社、研究機関等にダイレクトに送付されています。また、徐々にではありますが、ネットワーク化も浸透しているのが現状であります。<写真―1は旧歌津町伊里前。同地区高台に移転予定です。>
「甦れ海岸線・暮しの風景」は、「142ある宮城の漁港を60拠点に集約する」という県知事の発言がきっかけとなりました。入り江の数ほど漁村集落があり<写真―2は旧本吉町今朝磯浜>、海・空・大地と、そこに暮らす人々の日々の営みが絡み合って、東北沿岸特有の美しい風景・景観が存在するのです。震災以前にコンペやワークショップなどの取材で撮った写真・場所の歴史・風土記、現状などを掲載するつもりで、旧唐桑町の小鯖漁港から始め、鮪立漁港、気仙沼市内湾地区(3回掲載)を経由し、次号から序々に南下(北上も有り得る)していく予定であります。
<最新号の紹介>11月6日発行
「東北沿岸・高台移転通信第6号」/高台移転・東北沿岸部の状況―Ⅲ。新地町釣師地区の状況。高台移転情報memo-7:限界集落、緊急防災空地整備事業
「甦れ海岸線・暮しの風景-06」/気仙沼魚町南町内湾地区(復興コンペ提案書から―Ⅲ・最終)【歴史薫る港のまち・新生計画】
ご希望の方はメールにてご連絡ください。バックナンバーの送付も受け付けています。
旧軽井沢から2011.9.24
今月中旬、灼熱の房総半島(御宿・鴨川)からJR外房線・長野新幹線を乗り継いで軽井沢駅で下車、清涼の旧軽井沢に投宿(鳩山通り 旧軽井沢ホテル・東雲サロン)。昨年の脇田美術館『木のデザイン』公募展の作品応募が縁で、2度目の訪問となった今回第一の目的は近代モダンホテル先駆けの双頭、「三笠ホテル」(明治39年開業・岡田時太郎設計)と「万平ホテル」(昭和11年建設・九米権九朗設計)であったのですが、照会は後日ということにして、ここでは旧軽井沢の風土環境に適した小建築2題を取り上げます。いずれも別荘建築で、現在の「ショーハウス記念館」(写真―1)は旧中山道沿いの林の中、小さな礼拝堂の奥に佇んでおります。イギリス国教会宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーが明治21年に別荘として建築、<避暑地軽井沢>のスティタス発祥の起源になりました。木造2階建て、開口部は格子のガラス窓の洋式建築。内部はホール・階段室を挟んで個室が連なり、プライベート重視の間取りになっています。 「室生犀星記念館」(写真―2)は、旧中山道・旧軽井沢銀座から東へ、「犀星の小径」を抜けた場所にあり、金沢市出身の詩人で小説家の室生犀星が昭和6年から亡くなる同37年までの晩年を過ごした棲み家で、母屋と離れの2棟、いずれも木造平屋建てで、周囲の木立の木漏れ日に、ひっそりとした隠れ家のごとくの佇まいは、我が国特有の<侘び錆>の風情を実感させるものです。 いずれの建築も旧軽井沢の風土・自然風景・寒村のくらしをこよなく愛した人々の温もりを感じられる建物であります。
さて近日、前述の脇田美術館において建築に関わる催しが行われます。
10月6日(土)
【木のデザイン】フィンランド/建築、デザインから見る木の可能性
ゲスト:べッカ・ヘイッキネン氏(建築家・アアルト大学教授)ほか
10月27日(土)
建築ワークショップ 長期的に考えるー住宅から都市へ
ゲスト:西沢大良氏(建築家)、塚本由晴氏(建築家)ほか 詳しくは
脇田美術館HPをご覧下さい。http://www.wakita-museum.com
災害公営住宅木造2つの計画設計2012.07.30
気仙沼市南町一丁目災害公営住宅
① 894㎡×5棟=4、245㎡ 3階建 ② 木造ラーメン ③ 構造用集成材、唐松、杉等 ④ 専有面積66.24㎡ 2DK ⑤ 自火報、消火器、避難器具、避難誘導標識 ⑥ 上下水道、電気、都市ガス、太陽光発電システム、エレべーター、緊急通報システム
七ヶ浜町松ヶ浜地区災害公営住宅
① 2DK×35戸(うちLSD住宅9戸 3DK×15戸 全50戸15棟 ② 木軸在来工法 ③ 地場材(杉、桧等) ④ 専有面積 2DK65㎡ 3DK80㎡ ⑤ 自火報、消火器 ⑥ 上下水道、電気、LPGガス、太陽光発電システム、緊急通報システム、
雨水等中水利用機器 バリアフリー補助機器
<①規模 ②工法 ③仕様材料 ④住戸規模 ⑤消防設備 ⑥主な設備、機器>
「高台移転通信第5号」と「甦れ海岸線・くらしの風景―05」を近日発行いたします。ご希望の方はメールにて連絡願います
続・気仙沼市内湾築復興コンペティション2012.05.25
オピニオン【Opinion】
気仙沼市魚町・南町内湾地区復興まちづくりコンペティション
永続的なまちづくりの仕組み立上げを!
気仙沼市主催の「魚町・南町内湾地区復興まちづくりコンペ」は紆余曲折の末、4月29日に最終の審査会が行われた。本来3月24日の審査会において最優秀作品かが決定されるものであったが、審査方法について複数の委員から異論が出て延期されたという経緯がある。混乱の最大の要因は応募要項上「審査委員による提案書の形式審査及び書類審査」とあるところを、審査会の前提としての庁内審査において102点の応募作品を20点に絞り込んだことに起因する。このことは、国内はもとより海外からも応募のあった作品群を、事務局で作成した審査基準に照らし合わせ、ふるいに掛け、審査委員の負担を軽減することを目的と推測される。しかし、書類や内容の不備などでのふるい落としはあっても、提案書の中身自体を審査することは、応募要項からの逸脱を意味するものである。これに合わせ、全作品が審査委員の手元に渡ったのが審査会開催の1週間前足らずとかで、住民及び商店街代表の審査委員が、提案書の主旨を理解することは至難の技といえよう。以上の経緯により開催された3月24日の審査会では、これまでを白紙とし、「全体の提案としてまとまっている作品」を最優秀・優秀賞候補。「個々のアイデアとして卓越している作品」を佳作候補として、全ての作品を対象とし投票による一次審査を行い、各上位5作品の提案者からの説明を受け最終選考をおこなうことが決定された。
まさに市全体の復興の施策が始まったばかりの困難な状況下でのコンペティション開催に踏み切った市役所の英断には賛辞を呈するものではあるが、事務局を補佐する専門の第三者アドバイザーの存在があれば、スムーズな審査経過を辿れたのではないかと思われる。
最終選考/プレゼンティーション : 応募要項では、復興まちづくりのコンセプトや手法の提案とともに、国が用意した5省40事業の復興交付金事業などの使い方等実現化手法を求められ、当然のことながら、寄せられた提案書は都市計画や海洋・土木・建築の高度な専門知識を駆使した内容であり、これに対し40人ほどの審査委員の中で有識者は3名という配分は、個別投票の一次審査において、いささか疑問と言わざるを得ない。しかし、最終審査での提案者からの具体的な説明と、有識者審査委員の専門的見地からの提案者への質問は、多数を占める市民審査員にとってペーパーでは得られない各々の提案・アイデアの本質が把握できたと評価したい。また、公開審査でもあり、多くの市民の方々が会場に足を運ばれ、歴史ある内湾の未来像創造のパフォーマンスを見届けた。審査結果は 最優秀作品に大手ゼネコン大林組等の「直立浮上式防波堤」を組入れた作品が選出されたほか、2点が優秀賞に選出された。
復興コンペ『102人衆』 : 今コンペティションは東日本大震災の津波被害の復興まちづくりの在り方を摸索するモデルケースとして、被災沿岸地域はもちろんのこと全国から注目を集めている。その意味からも、作品としては最終選考に選び出した提案書などを叩き台とし、街並み再生復興の青写真をつくる契機としたいものであり、その成功は住民主導のまちづくりの布石となるものである。また、気仙沼市全域において、不足しがちな復興事業の技術職・マンパワーを担う一翼として、作品募集に呼応した『102人衆』の結実が望まれる。今コンペティションのボランタリー的な性格からして、営利抜きに参加する建築家、環境デザイナー、都市プランナー、設備技術士は数知れないだろう。『102人衆』の力量は並大抵のものではないレベル。建築家でいえば、我が国の建築界を牽引する、しいて名前を挙げれば、佳作入選の石山修武さん、上位に入った早川邦彦さん、古市徹雄さんなど錚々たる重鎮達である。
永続的なまちづくりの仕組み : 次のステップとして、復興の主体である住民・商店街・事業者+市役所等行政機関+復興コンペ『102人衆』専門職支援グループの三位一体となるネットワークの形成は、きめ細かなまちづくり計画の実行を迅速かつ確実に進められるものと考える。
また、『102人衆』の活用の一端として、行政が打ち出した集団移転事業「気仙沼方式」において、対象地区住民と建設事業者の協議のアドバイザー役や宅地造成・住宅建設の技術的提案等、あらゆるまちづくりの現場におけて、側面支援の担い手としての役割が期待できよう。
回り道した感のある今コンペティションではあったが、その回り道こそ、市民審査員の街並み復活再生への想いを熟考させ、その熱意が広範な市民へと伝わり、まちづくりの気運が一層高まったように感じられる。
さらに、機会があれば102点の全作品を展示会等で市民に公開し、たとえば子供達の考える気仙沼の未来像を描く絵画展との共催を企画したりして、市民の議論を呼ぶことも、永続的なまちづくりの仕掛けとして有意義なものと考える。
【お知らせ】 「東北沿岸・高台移転通信」第4号と「甦れ海岸線・くらしの風景」-04を発行いたしました。ご希望の方へメールにて送付いたします。ご連絡ください。
歴史薫る港の街新生計画2012.04.20
全国的に注目を集めている『気仙沼市魚町南町内湾地区復興まちづくりコンペ』の第一次審査の結果発表が先日行われ、私の作品(模型写真参照)は102点中15位と、残念ながら最終選考には残らず仕舞いに終わってしまいました。個人での応募ではあったのですか、「スピリット オブ 気中S41」の団体名は、今震災で惨くも亡くなった4名を含む、気仙沼中学校昭和41年度卒業同期生のこれまでの物故者の故郷復興の想いを共有するものとして命名したものです。強いアルコールの<スピリッツ>の力を借り、夜な夜な霊界との交信を繰り返し、コンセプトをつくり上げました。
コンセプトー1:街の形の創造は「場所」の記憶に導かれる
コンセプト -2:豊かな関係が織り成す地域循環型の街づくり
コンセプト 一3:街中と内湾を結ぶタイナミックな景観の形成
コンセプト -4:港街の文化を育むコンパクトタウンの創造
以上主題ではありますが、いずれは作品の全容を公開するつもりでおります。また機会あれば、応募者有志と協同の専門職支援連絡組織を立上げることも視野に入れております。
同コンペの公開最終審査会は、提案者のプレゼンテーションという形式で4月29日に気仙沼市民会紀中ホールを会場に行われます。
追悼 吉本隆明2012.03.17
3月16日未明、詩人で思想家の吉本隆明が亡くなった。若輩のころ、無謀な正義感と反骨の捌け口を探し、住民運動を支援する青年組織(党派)と生活を供にした時期があった。今流、よく言えば災害ボランティア、その頃の社会通念では<非合法の過激派集団>。思想的に確立していない私はもっぱら、砦と称する生活空間での力仕事や<援農>といって、農民組織の野良仕事の手伝いなどをしていた。そんな日常において、たまに起きる衝突で、勇猛果敢に機動隊の壁に消えていった仲間は、拘留中に必ずと言っていいほど、吉本隆明の著作を差し入れに要求する。「よしもとりゅーめい」いつも頭の片隅におきながら、活動資金を作るため派遣された富士山麓の小さな町の小さな本屋で氏の「共同幻想論」を偶然にも手に入れた。しかし、朝早くからの重労働が響き、毎夜1ページも読まないうちに枕もとに転げ落ちていた。時は過ぎ、その「共同幻想論」は「心的現象論序説」等著作集共々、我本棚の一角で深い眠りについている。しかし、あのころ、抽象的かつ難解な文体をよく理解するものだと、我同士達を羨ましく思ったが、なにを隠そう当の本人に読解力がなかっただけのことと後年気がついた次第だ。その吉本に一度だけ遭遇したことがある。挫折(今考えると、挫折などカッコいい話ではなく、逃亡)の後、日本のドストエフスキーと称された埴谷雄高の形而上学的感念小説の虜になったころ、恐れを知らない愚か者というか、新作の批評を小誌にし、その新作を語る講演会場前で配布していたところ、評論家の秋山駿、作家の小川国夫と一緒に吉本がノッシノッシと私の前を通り過ぎようとした。私はとっさに小誌を手渡そうとしたが、吉本は我手を払った。顔はいかつく、体は骨ばってでかい、なにか金剛力士王ごときの風体であったと記憶する。その時(1971年)の川内記念講堂『高橋和巳追悼、「死霊」完成記念講演会』の受講券は今でも後生大事に持っている。(しかし、高橋が急逝したからって、取ってつけたような演題では、高橋が浮かばれないよ、某大学の実行委員会さん・・今でははげ頭のおっさんか!)
さて、冗談はともかくも、吉本は東京月島の船大工の家に育ち、以後今日まで下町をその生活の基盤にし、創作活動を行っていた。権力を拒み、大衆の中の大衆の知識人としてその生涯を貫いた。吉本は下町の暮らし空間を基点にした「都市・国家論」に饒舌である。1989年弓立社から出版された「像としての都市・吉本隆明・都市論集」(挿入写真参考)は手元に置き、仕事に詰まった時など読み直し、気分転換してから、仕事と向き合っている。さて、還暦を過ぎた私に「共同幻想論」を読み切る器量はできたのか?・・・いずれ挑戦するつもりでいる。87歳の大往生にただただ合掌あるのみ。(大坂 寛)
気仙沼市内湾地区復興コンペティション2012.03.01
巨大津波により甚大な被害を受けた気仙沼市の内湾地区(魚町、南町など)の復興再生の青写真作成の参考にしようとデザイン・アイデアを広く募集したのに呼応し、海外3点を含む99点の作品(2月29日現在)が気仙沼市に寄せられました。
提案の条件として、レベル1(数十年から百数十年に一度)の津波に対しては人命・財産を守ることを前提に、レベル2(レベル1をはるかに上回る)今回のような津波に対しては人命を守ることを前提とすることなど、防災と減災を強く意識した募集要項となっていたようです。
さて、大変な状況の中でコンペを行う英断には、市当局の街再生への強い意気込みが感じるのですが、選外の作品からの<いいとこ取り>とか、締切り以後に審査委員を選考するなど(所縁の建築家・石山修武氏が委員長になれば画期的!)、昨今の同様の事例と比べると異例の内容になっているようです。であれば、ここはコンペ道の大道を行き選考過程を公開し、上位に残った応募者を招集して<詩のボクシング>ならぬ「街つくりのボクシング」とか、国内のみならず海外にも発信するようなパフォーマンスを繰広げてもいいのではないでしょうか。
そして、応募者への配慮として、著作権、デザイン権等考慮することも、気仙沼市が国際都市として名乗りをあげる必要条件であると考えます。尚、審査は3月下旬とのことです。
「高台移転通信第3号」と「甦れ海岸線・くらしの風景―03」を近日発行いたします。ご希望の方は メールにて連絡願います。
年賀状 2012.01.012012.01.01
かれこれ10数年、上京した時のねぐらは麻布界隈仙台坂下。決まって朝の散歩は、坂下発韓国大使館前経由、坂を上り切った野球場のベンチで小休止、少年野球のボールの軌道を眺めながら、その日のコースを決める。選択は二通りあり、有栖川公園を突き抜けて広尾駅前経由旧フランス大使館前を通り折り返し後、起伏の富んだ南麻布の住宅街を散策し、仙台坂下に戻る南コース。北コースは野球場前から緑豊かな元麻布の邸宅やガマ池、各国大使館の家並木を抜け、暗闇坂の急カーブを麻布十番商店街へと下る。朝の十番界隈を一回りし再び仙台坂下へ。どちらのコースも小一時間、コンビ二やパン屋で朝食を買って再びねぐらへ・・・。しかし一年前に別の区内に引越し、残念ながら朝の散歩コースは変更となった。
安藤記念教会は北コースの途中に有り、引越しの前から今度の年賀状の絵柄はこれと決めていた。さて、ねぐら代れど、上京した際の家族の集合場所は麻布十番の焼肉屋「○○苑」。たらふく食べ、いくら呑んでも1人三千円とかからない。これからも集合場所はここ「○○苑」と勝手に決め込んでいる。
【お知らせ】 1月中旬「東北沿岸・高台移転通信」第2号と「甦れ海岸線・くらしの風景」-02を発信(無料)いたします。高台移転(希望)当事者、そのグループ、支援者、災害ラジオ局、地域の新聞社、自治体担当者にピンポイントで送らてれます。送付ご希望の方はメールにて承ります。
映画監督ビクトル・エリセの世界観2011.11.28
ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」(写真=スペイン・1973年制作)を観た。スペイン内戦直後の1940年の中部カステ―ニャ地方にある小さな村の養蜂家4人家族を取り巻く物語。戦禍と化した広大な茶色の畑と、どこまでも青く深い森林の対比。部屋に指す光と影のコントラストと夜、暗闇に揺れる幻想的なロウソクの炎。きしむ廊下の床の靴音と怯える少女の瞳。フランコ独裁政権に敗北した側の人々の心の荒廃と、回復への兆しを、セリフでの表現を上回るリアリティ迫る映像美はまさに70年代映画の叙事詩。・・・そして、主役を演じた少女アナ・トレンドは40年後に奈良国際映画祭「3.11ア・センス・オブ・ホーム・フィルムズ」の作品で、楽屋のパソコンに向かって、津波と原発のこと、ヒロシマのこと、私たちを見つめる死者のことを、3分11秒に渡り語りかけた後、舞台に向かう。・・・エリセは言う「参加して、日本の人々への連帯感を表したかった。唯一の真実は私たちの家は地球であること。地球の隅々までメッセージを届けるため直接的な方法をとった」(日本経済新聞9/17)。最近、盛岡といわきで、封印していたモーリス・ベジャール振付けの「ボレロ」を演したフランスのバレリーナー、シルビィ・ギエムといい、欧州の芸術家たちの世界観は、まさにグローバルな視点をその思想の根源として表現している。
【お知らせ】 「東北沿岸・高台移転通信」と「甦れ、海岸線の暮らしと景観」を定期的に発信(無料)いたします。前者は当時者達の視点から高台集団移転に関するドキュメンタリィーな内容を掲載。後者は震災以前に撮った集落や家屋の写真、最新のメッセージなどを掲載いたします。ご希望の方はメールにて承ります。
続「木のデザイン」 ―旧軽井沢から― 2011.10.17
快晴の10月8日、高崎でJR信越線に乗り換え、横川駅から路線バスで絶景の碓氷峠を越え、軽井沢駅で下車、脇田美術館を目差して北に歩きました。駅前から旧軽井沢に至る大通りは、空き店舗・空き室が目立ち、街並みは多少色あせた感がありましたが、旧軽井沢で一歩小径に入るとカラマツや白樺の林が列なり、その1画に中庭を中心に、洋画家脇田和のアトリア山荘(*-1・写真参照)を囲む形で脇田美術館(*-2)が周辺の自然景観に調和して佇んでおりました。
アトリエ山荘は、1階が倉庫や屋外デッキの鉄筋コンクリート造で、2階が木造のアトリエ・書庫他住空間の混構造です。屋根は鋼板瓦棒葺き、外壁は杉下見板貼りで、いたってシンプルな外観デザイン、気負いのない簡素明快なプランは築後40数年経った現在において尚、渋いながらも、その輝きを失っていませんでした。
さて、その中庭で行われた「木のデザイン」2011公募展(*-3)の授賞式において大賞を得たのは長野県出身名古屋市在住の30歳代の木工作家。作品はカラマツの特徴の<反り>を活かした椅子の連作。今後の創作活動の励みになることでしょう。
住宅から家具・お箸やお椀にいたるまで<木>は私たちの生活に欠かせない大切なものです。使い方の工夫ひとつで、豊かなライフスタイルがつくられるのです。
(*-1)アトリエ山荘:1970年に脇田和の友人である故建築家吉村順三氏の設計により建てられた別荘住宅。財団脇田美術館が維持管理。
(*-2)脇田美術館 :1991年会館。設計は建築家岡田新一氏。鉄筋コンクリート造2階建。
(*-3)木のデザイン:大賞=kisori(wood warping) 小林啓伯氏
制作協力 スニッカ、(株)堀江製函合板所
木のデザイン2011.10.01
<木>は再生を繰り返す。根こそぎ津波にのみこまれた<木>の魂は、大海で陽に照らされ、水蒸気として天空に昇り、雲となり雨を降らし、台地に<木>の根を宿す。この<木>の再生循環のサイクルは日本人の生死感・輪廻転生の思想に共通する。
鋼製の仮設住宅は当初、周囲の自然景観に孤立し、どこかの国の収容所を連想させるような形でしたが、一夏を越し、居住する人たちの工夫で、軒先、日除け、縁側、デッキが次々と造られ、外空間との「際」が生まれ始めている。その材質はもちろん<木>です。
三陸沿岸部の90%余りは山間部で森林地帯である。日常の暮らしと関わりの深い<木>の資源を有意義に用いることは、地域再生のキーポイントとなりうるでしょう。
さて、建築家吉村順三ゆかりの長野県軽井沢・脇田美術館で[木のデザイン]公募展2011が開催されます。かつては、鉄道の枕木や電柱に用いられていたカラマツを素材にした調度品や家具。オブジェなどの作品を集めた展示会で、応募のあった230点の中から、10月8日のオープニングレセプションで大賞が決定します。
[木のデザイン]公募展2011
10月8日(土)~11月25日(金)
シンポジューム 10月8日15:00~
カリ・ヴィルタネン(フィンランド・木工家)
クラウス・ツベルガー(ウィ―ン工科大学建築学部教授)ほか
予約は脇田美術館(0267-42-2639)
私も塩竈神社参道周辺の修景施設「木肌包み」のシリーズⅡ(写真参照)をプレゼンいたしましたが、最終18点には残りませんでした。
ここ3年に渡り、<感性の鈍化=ボケ>予防のためにも年間1本程度のコンペ・プロポに応募いたしておりますが、全て敗退の結果です。
2009年 銀座田屋リニューアルコンペ(応募総数316点、審査員:建築評論家馬場章造氏ほか、最優秀:千葉学氏) 選外
2010年 市原市水と彫刻の丘リノベーションプロポ(応募総数231点、審査委員:建築家伊東豊雄氏ほか、最優秀:有設計室) 選外
2011年 [木のデザイン]公募展2011(応募総数230点、審査委員:建築家黒川哲郎氏ほか、最優秀:10/8に発表) 選外
新地町分室だより Vol.22011.9.19
9月13日(火)、新地町総合体育館会議室で開催された「第一回新地町地区別復興懇談会」に出席いたしました。仮設住宅に居住 する人、県内外に避難した人など50名ほどが出席いたしました。今回は、役場からの復興・住宅の再建までの進めかたの説明と、 それに関する質疑応答のみの会合でしたが、12月まで数回の懇談会開催で、詳細を詰めていく方針ということです。
今回の会合で、町復興計画のスケジュールがおぼろげながら見えてきたようです。先ず、海岸堤防の完成までに約5年(完成まで浸水地域には建築制限の規制)。仮設住宅の居住期限が約4年。このスパンの過程で、用地確保等の高台移転を含んだ町復興計 画を進めるというもの。 高台移転に関して先日、仙台市若林区荒浜地区の集団移転(移転候補地=若林区荒井)に掛かる自己負 担額が公表されました。それによると、土地200㎡2階建住宅で、一世帯あたり3000万円というものです。被災したあげく、ふるさとをあとにして、この金額の負担では、荷が重過ぎます。一戸建ての再建が理想かも知れませんが、市町村単位の災害公営住宅への入居、隣り近所同士のコーポラティブハウス建築等、個々の事情により、住まい方は幾通りもあるものと考えます。住宅再建の方法も、集落単位で建設組合をつくり、自分たちで計画設計・材料の一括発注などの施工管理し、集落の専門職を総動員して建てれば自ずからコストを低くすることが可能でしょう。
釣師浜海水浴場(写真ー1)は、水もきれいになり、ほとんど震災前の美しい砂浜に戻ったようですが、釣師浜漁港は津波被害そのままの佇まいをしていました。難を免れた漁船群は大戸浜の岸壁に繋がれたまま、沖の魚の放射線が基準値を下回るまで出漁できない現状が垣間見てとれました(写真ー2)。
懇談会の帰り道、元気な中学生や高校生とすれ違いました。この子らが主役になって町の復興をさらに進めることができるよう 、大人たちは町再生の青写真をしっかりと作り上げていかなければならないと考えます。
新地町分室だより Vol.12011.7.16

7月15日(金)、気温33度・炎天下の中、JR常磐線とJR代替バスを乗継いで、新地町にやってきました。 相変わらずの瓦礫の風景(釣師標識写真参照)でしたが、川に黒鷺が遊び、浜には沖を眺めるカモメの一団がいて、 自然の営みから、少しずつではありますが、本来の姿に戻る気配を感じました。
街中では、役場近くのスーパーマーケットは5月下旬に再開し、同じ通りに大戸浜にあった歯科医院や理髪店が臨時の店 を出していました。また、附近の空き地では、仮設の商店街の建設が進み、近々のオープンを目差しています。こちらも少し ずつではありますが、日常の界隈の姿を取り戻す気配を感じました。
役場近くの高台には津波に流された写真や家具などを保管展示する「思い出倉庫」があり、写真修復の作業などに汗を流 す町の人達が見受けられました。
新地町では、そろそろ復興の青写真が発表されるということです。まず第一に、これからの時代を担う若者・子供たちが希望の持てる街再生の計画であって欲しいものです。